武士による言葉の変遷(室町~江戸編)
こんにちは。もりくまです。
今回は鎌倉 室町の武士と公家が交流する事による日本の言葉の変化を追います。
武士が漢字を利用し作った言葉の変遷。
さらに江戸時代の武士と庶民の言葉がどのようにしてできあがり定着したかを
ご紹介します。
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武士による言葉の変革
平安時代の古典的言語は鎌倉時代を経て大きく変わり現代の言葉に近づいてきます。
鎌倉武士が日本語にどのような影響を与えたのかみていきましょう。
源頼朝が政権を執ると京の都に各地方から武士達が集まってきました。
地方武士達はそれぞれお国なまりがありコミュニケーションには苦労していたようです。
この頃書かれた文献、「平家物語」の中に平家軍を破りいち早く上洛してきた「木曽義仲」に対して「言葉が聞き取れず何を言っているか解らない」
という、公家の言葉が残されています。
そんななか、武士達は独自の言葉を作り始めました。
「かえりごと」「火のこと」などの和語を漢字で表しそれを音読みにすることで「返事」「火事」とします。
こうすることでおなじ意味でもコンパクトでよりシャープに表現できるようになりました。
他にも「無骨」「大切」など沢山の言葉が作られました。
これらの言葉は漢語として伝えられたものかと思っていましたが日本でできたものなのですね。
さらに室町時代になると地方武士達が盛んに京へやってくるようになり公家達との言葉の交流が進みます。
武士達が偉くなるためには征夷大将軍、関白など天皇に位をもらい認可していただかなければなりません。
そのためには京での言葉づかいを公家たちにおしえてもらう必要がありました。
天皇や公家達に謁見するにはきちんと公家言葉を話し宮中での立ち居振る舞いを習得することが必須だったのです。
こうして武士達と公家の言葉の交流が進むことでしだいに確立されていった日本語は現在でも「狂言」などの伝統芸能で聞くことができます。
これがこの当時の上流階級の言葉といわれています。
さらに戦国時代になりますと戦火にまみれた京都から逃げ出した公家や全国に散った武士達により京の文化とともに言葉も全国に広がりました。
江戸時代~山の手言葉と下町言葉
戦国時代を経て徳川家康が天下統一を果たし徳川幕府を開くと藩政が敷かれ関所が設けられ人の自由な行き来が少なくなってしまいました。
経済的にも文化的にも独立して生活ができるようになったことで必然的に他の藩との交流が少なくてすむため260年あまり続いた江戸時代、それぞれの方言が
発達していきました。
そして将軍のお膝元の江戸でも独特の方言が作られました
この江戸の言葉が現代の標準語に大きな影響を与えます。
当時、江戸には多くの武士、町人がすんでいました。
そんななか、江戸の武士のあいだでは山の手言葉が使われています。
山の手言葉とは戦国時代に浸透した京都の都言葉が伝統的に武士の間で使われることになったのです。
一方、庶民の間で使われたのが「べらんめぇ」口調の早口の下町言葉。
徳川が幕府を開いた事で田舎町だった江戸にさまざまな地方から人が移り住み、幕府を開いてからわずか100年で人口100万を超す大都市となったためいろいろな文化や言葉がいっぺんに入り込んできました。
新しい町には新しいもの好きな人間が集まり新しい文化、言葉が作られて行きます。
うわさ好き、話し好きの町人によって室町時代からの日本語は次々と変えられて行きました。
人口が多い江戸ではより早く情報が伝えられるせっかちで早口な下町言葉が定着して行くようになります。
日本語の教育
江戸時代、日本人の識字率は高く武士ならほぼ100%。
庶民でも男子が50% 女子が20%ぐらいが文字を読むことができ江戸に限れば80~90%をほこります。
江戸末期、通商条約を結ぶために来日したプロイセン海軍の艦長は「日本では身分の低い肉体労働者であっても容易に文字を読み全然、文字を読めない文盲は1%に満たない」という手記が残されています。
19世紀の工業最盛期のロンドンでさえ低階級の人の識字律は10%ほどとされ日本人の識字律の高さが驚異的な事が解ります。
日本では僧に成りたい子供達を寺に集め読み書きを教える制度が室町時代からありましたがしだいに身分の低い武士、町民、農民の子まで教えるようになりました。
江戸中期に寺子屋として全国に広まったようですが子供を集め文字、そろばんなどを教えるのはそれ以前から、盛んに行われていました。
さらに教科書として往来物と呼ばれる書物が使われ職業別に「百姓往来」「商人往来」など実用に則したものが700種類以上も作られていたのです。
往来物は絵と文字で構成され子供達に理解されやすいように作られていました。
漫画とおなじで文字だけで教えるよりも取っつきやすいのは現在とおなじですね。
今の漫画ブームはこの頃から下地があった?といゆのは大袈裟ですが。
まとめ
古来の日本語はさまざまな変遷を経て江戸時代にはほぼ、現代で使われているものに近い物となりました。
さらに教育制度も工夫し文字の読み書きも普及していったのです。
寺子屋は義務教育などではなく、僧、武士、医者、学者などの有識者によって開かれた民間教育機関です。
このころは国の手を借りず必要な物は自分達でやる意識が強く子供には勉強が必要という先生や親達の熱意に寄って成り立っていました。
日本人が子供に対する教育を如何に大切に思っていたか解りますね
最後までお読みくださりありがとうございます。
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