二本松少年隊と戊辰戦争。八重の桜で描かれる時代の後をたどろう

公開日:  最終更新日:2017/12/16

こんにちは。もりくまです。

提灯祭りや菊人形。二本松を色々、紹介してきましたが
なんといっても二本松は城の町です。

旧市内を歩くと城下町の名残が見られます。

その我が町を守るため命をかけて戦った少年たちがいました。

二本松少年隊をご紹介します。

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二本松少年隊と戊辰戦争の悲劇

慶応4年7月29日(1868年9月15日)
戊辰戦争において攻め込んできた薩長連合により
二本松城は落城しました。

二本松は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願のため結成された
奥羽越列藩同盟の一員として「新政府軍」に立ち向かいます。

その際、13歳から17歳の少年部隊がありました。

もちろん、今でいうなら中学・高校生の部隊など認められるわけ
有りません。

しかし、白河の戦いに兵を取られ兵力は不足。
戦況を知った少年達から重ねられる嘆願、接近する敵軍
切迫した戦況に動員を認めざるを得なかった訳です。

中でも語り次がれているのは二本松インターより国道4号へ
向かい程なく大壇口と呼ばれる場所で行われた戦いです。

「八重の桜」に出ていた木村銃太郎隊長と成田才次郎
他、少年兵25名がこの戦いに出陣しました。

銃砲撃部隊として銃撃で敵を倒し敵軍が逃げ込んだ民家へ
砲撃をくわえるなど活躍しましたが隊長の木村重太郎が
負傷し指揮を執れなくなると散り散りになり経験不足も
たたり木村始め大半が戦死しました。

二本松は小国でしたがその戦いぶりは敵将に戊辰戦争第一の
激戦と賞されるほど過激なものになりました。

白虎隊と少年隊 八重の桜

会津白虎隊と混同されることが多いらしいですが
全く違います。

白虎隊は会津戦争のため編成された部隊で四神獣である
玄武、朱雀、青龍、白虎から名付けられたもので
16~17才の少年たちによって構成された部隊です。

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本来、予備部隊として城下の守備に当たらせるはず
だったのですがこちらも戦況悪化により前戦へ送られて行きます。

二本松の部隊は主力の多くが白河戦など遠くの前戦に割かれ
別方面から攻め込まれ苦しくなった戦況のもと
「自分だって戦える」と志願嘆願してくる子供たちに
泣く泣く許可を与え出兵させたもので部隊名などは有りませんでした

二本松少年隊の名はその供養とその戦闘の記録を残すために
名付けられたものです。

出兵の朝、「死んでも母に自分だとすぐ判ってもらえるように」
と、服に名前をいれてもらう。

刺された敵将が相手が子供であったので「殺すな!」と
怒鳴った話など

数々のエピソードが語り次がれていて菊人形のステージなどで
演じられています。

菩提樹 大隣寺の墓

二本松城主 丹羽公の菩提樹 大隣寺には14の供養塔があり
二本松戦で戦死した少年隊士が供養されています。

そして 毎年、七月下旬ごろ二本松顕彰祭が行われ
二本松北小(霞ヶ城公園最寄りの小学校)の生徒さんによる
剣舞が披露されています。

後から考えれば起こす必要のない戦争であったはず
なれど戦闘は行われてしまいました。

そして戦いが起こってしまえば自分のふるさと、家族を
守ろうと子供であっても志願して戦いに身を投じる。

このようなことは昔に限らず行われています。

先の米国との対戦にも年若い志願兵。
ベトナム戦争でも子供が銃を取り 現在内乱が行われている
場所には少なからずこういった悲劇はあると思われます。

まとめ

徳川が政権を取ってから250年ほどの長い間
最初の落ち着くまでの期間をのぞけば黒船がやってくるまで

日本は平和でした。

治安もよく武士の刀にしてもシンボルであって
人を切ることはおろか刀を抜いて人に向けて構えた
事さえない人が大多数であったと思います。

それでもほんの少しのきっかけで時代は動きます。

できれば悪く動くのは避けてほしいですが避けられない
事態は有ると思います。

もちろん平和は長く続いてほしいものですが・・・

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